白鳥は美しき声で鳴けたのか?【SWANSONGの感想】

某エクソダスの人から『SWAN SONG』という作品を紹介されたのでプレイしてみましたので、その感想などなど。

「主人公が木坂さんに似てるというか、キルケゴール(読んでないから知らんけど)を意識してるというか、そんな気がするんですよね」ということなので購入。

 

2005年発売なんでもうちょっとしたら10年前の作品となるわけですが、全く古臭くないし、あんまり時代関係なしにやれるような気がします。

ちなみに巷の評価では「鬱ゲー」だったのですが、やってみたので感想や考察を兼ねて色々と書いていこうと思います。

 

 

■あらすじ


 

雪が深々と降り積もるクリスマス・イヴの夜、とある山奥の地方都市を大地震が襲う。街は一夜にして雪と瓦礫と死臭に覆われ、辛うじて生き延びた若者たち6人は倒壊を免れた教会で出会った。

身を寄せ合い、容赦なく押し寄せる現実を受け入れながら生還の手立てを模索する彼らは、やがて行く手を阻むように水没した街を筏で渡り、彼ら以外に生き残った人々が避難する学校へと辿り着く。

束の間の安寧を得、力を合わせて厳しい冬の異常事態を乗り切ろうとする彼らだったが、外部との通信が隔絶されたまま長期化する避難生活と逼迫する生活事情、そして他所に避難する人々との諍いの勃発が人々のこころの歯車を軋ませ狂わせていく。

 

ここから感想やら考察やらを書いていきます。ネタバレしないように書いていこうと思いますが、ネタバレしちゃったらごめんなさい。

・・と思ったけど、10年も前の作品だしいいでしょ。

 

 

■登場人物


 

– – -【尼子司】- – –

つかさ

 

本作の主人公であり、某エクソダスの人が「木坂さんに似ている」という印象を抱いた人。見た目は残念ながら似ても似つかないのだが、感情の振れ幅が少なく、どんな時も冷静に客観的にものを見て、強い意志と自分のペースを崩さず、絶望しても諦めず希望を持って行動する。

天才的なピアノの才能があったが交通事故によりピアノを弾くことができなくなるが、それでも彼の心は折れることなく、再びピアノを弾くことを願い、希望を捨てない姿は「美しい」と言える。

 

– – -【佐々木柚香】- – –

ゆかっち

 

少女時代に尼子司の天才的なピアノを聴いた結果、自身の凡才さに気づかされ、自分の存在意義や人生に絶望し、諦観し、世界や人間を「不信」という態度で接しながら生きてきた。そのため、周りからのポジティブな評価には無頓着というか興味が無い。また「生」に対しても希薄なのだが自覚がないように感じる描写もあったり。

ゲームをやる前に第一印象で「この子がいい!」と思ったのがこの佐々木柚香だったのですが、僕をよく知る人から「人間不信」「諦観している」「絶望している」と言われるし、僕も自分自身にそれが根底にあると思っているので、なんというか「この胸のトキメキはきっと偶然じゃないんだ」って感じがしましたね(苦笑)

 

– – -【鍬形拓馬】- – –

くわがた

 

ある意味でもう1人の主人公で、絶望と孤独が支配する世界でもっとも変化する男。震災によって剥き出しになった街や人の変貌に感情を激しく揺さぶられ続け、その内面を大きく変化させていく。

ゲーム序盤で彼が感じた嫌悪感をゲーム中盤以降に彼が持ち合わせるという皮肉。人は弱い生き物だからこそ恐れからの行動だということも心理的には理解できるが感情的には納得しない。

 

しかし、それらは誰にでも可能性がある変化というのも事実である。

彼がやってきたことが僕らが生きる社会においても大なり小なり起こっていることであり、一言で言うなら「可能性を閉ざす箱庭」だった。それはそれで集団を守るための選択であるのだろうが、より良い選択とは言えなかった・・。

 

– – -【田能村慎】- – –

たのむら

 

彼の選択が「BADEND」か「HAPPY?END」を分けることもあり、キーパーソンと言える人物。鍬形拓馬の暴走を止めていたのが彼だったのだが、彼がいなくなった後に鍬形拓馬は歯止めが効かなくなっていく。

常に慎重に行動し、それが人によっては優柔不断に取られるのだが、その「理性の強さ」がこの荒廃した世界をどのような結末へ導くかの「鍵」となっていた。

「理屈・理性」より「感情・本能」が強いということはご存じだと思うが、それをどこまで抑えることができるかが「人が人である営みを可能とさせるもの」だと思うし、その理性を司る彼の有無とその後の世界が「人が人でいられるかどうか」ということを示しているようにも感じられた。

 

– – -【川瀬雲雀】- – –

ひばりん

 

「愛」と「母性」を司るキャラクター。田能村慎とカップリングなのだが、これは当然と言えるだろう。男性性と女性性をこの2人で表しているようにも感じる。

ちなみにプレイ後はこの子にメロメロ。ひばりんかわいいよ、ひばりん。

絶望と孤独が支配する世界で、集団心理が大きく動きまわる世界で、あくまでも「個」として「何を感じ、何を思い、何を考えるか」ということを強く意思表示する。それは「人間らしさ」の象徴。

「どんなものに心を乗っ取られることなく、心を売ることなく、自分の人生を生きる」ということは実はとても困難なことだと思いますが、それを最後の最後までやり通した。ほんと、ひばりんすごいよ、ひばりん。

 

– – -【八坂あろえ】- – –

あろえ

 

自閉症スペクトラム障害を持つ少女で、大地震で保護者である姉を失う。偶然であった尼子司が瀕死の姉からあろえの保護を託されることで同行することになる。

コミュニケーションを満足に取ることが出来ず、一人で生き抜くことができない少女が、絶望と孤独が支配する世界でどういった役割を与えられているのか?

 

いくつか考察サイトを見ていると「鏡」としての存在だと言われており、これは現在大ヒット中の『アナと雪の女王』に出てくるアナの婚約者であったハンス王子も同じ役目を負っている。

あろえは「自立した個」としての存在ではないということ、また周りの人間は「あろえと関わることで個人が持つ感情や思いを具現化させる」ということ、そーゆー意味で「鏡」だったのかもしれません。

そして、彼女は誰と関わる時も誠実に真摯に関わった。その結果として、より個々が持つ感情や思いや考えが強く本人に反映していったのではないでしょうか?

 

 

■ざっくりとしたプレイ後の感想


 

キャラクター紹介の時点で2500文字を超えているのだが、いったいどうすればいいんだ・・。

まぁ、とりあえず書いていきましょうか。

 

この作品のキャッチコピーは『その時、人は絶望に試される』

この辺が「きるけごーる的」と言われる所以。

 

某エクソダスの人の言葉を借りるなら「絶望しても諦めない人」「絶望して諦めた人」、そして僕が付け加えた「絶望を自己肯定した人」との対話の物語、そして「孤独とどう向き合うか」の物語だと感じています。

終盤の3人の対話、そして最後の2人の対話がそれを表していると思います。

 

そしてこの作品は最後まで「分かり合えない群衆の物語」でもあります。

それはどんな関係性になろうとも、完璧に理解することはできないということなのかもしれない。

 

ss03

 

 

■分かり合えない世界でど生きていくのか?


 

じゃ、僕らは分かりあえない世界において絶望や孤独とどう接していいけばいいのでしょうか?

例えば、『機動戦士ガンダム』はニュータイプによって「人は分かりあえるかもしれないという希望」で終わっていますが、その続編の『機動戦士Zガンダム』ではニュータイプでも「人は分かりあえないという絶望」の物語となっています。

そして『機動戦士ガンダム-逆襲のシャア-』では「人は分りあわないという葛藤」を描き、個人的には富野由悠季が生み出した宇宙世紀シリーズの集大成とも言える『機動戦士ガンダムUC』は「人は分かりあえなくとも希望は捨てない」という受容の物語になっているように感じています。

 

ここで注目したいのは各作品の主人公でありガンダムのパイロット達は、どこまでいっても「個」だったということです。

彼らの行動や選択が世界や社会の在り方を変えたということはありません。あくまでも「個」ができる範囲のことであり、各々がその時のやれることを目一杯やったというだけ。

 

ガンダムパイロット

 

「個」が集まって「集団」となっても、それには限界があると思います。

もちろん、歴史を変えた大きな動きというものもたくさんあったのでそれ自体を否定するわけではありませんが、「集団には集団が持つ強さと脆さ」というものが存在し、『SWAN SONG』の中でもそれは明示されています。

 

まぁ、それは置いといて。

『夜と霧』だったか忘れましたけど、強制収容所で長生きしたのは「希望を持ち続けた人」というエピソードがあった気がします、『夜と霧』だったかはちょっと不確定だけど。

だとすればその反対に位置する「絶望」は『死に至る病』といえるだろう。

そして、仮に希望が「あるべき未来」ではなく、「ありもしない未来」であり「自分でつくり上げる未来」だとしたら、無理矢理信じる必要があるのかもしれない。

 

仮に無理矢理信じる必要があるとしたらそれはかなりの苦行であり、本当に何もかも諦めて希望を捨てて生きればそれはそれでラクだとは思う。

僕だって何度も諦めてしまおうと思ったことあるし。

もちろん、現代において何もかも諦めて希望を捨てて絶望に身を委ねたとしても、生物的に「死を迎える」ということは殆どないでしょう。倦怠の日々が続くだけで、生物的な死は回避できる。人間的な生があるかどうかはしらないけど。

まぁ、それが「弱い人間」と言ってしまえばそうなのかもしれないけれど、誰もが強い人間ではない、僕もそうだけど。たまたま何とかやってこれただけで、心が折れてしまっていたら「ひきこもり」「ニート」の世界に入っていた可能性だってある。

 

だから、そうなってしまうこともある意味で仕方のないことなんだけど、逆に言うなら「希望を持ち続けるって大変なこと」なんだと思うのです。

「いや、そんなことないだろ?」と平然と言ってのけることができる人はもしかしたら恵まれた人生を送ってきたのかもしれませんし、もしくはその弱さや絶望をきちんと見つめ、それを乗り越えた人なのかもしれません。

 

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■最後に


 

まぁ、こんなことを書いている間は僕もまだ「絶望の中でも希望を持っている」ってことになるんですかね?

「諦観」はしていても「諦めていない」とは思っていますが、自分のことってよくわからないので。

気づけば途中から『SWAN SONG』の話ではなくなってしまいましたが、一応テーマには沿った話だと思います(苦笑)

 

あっ、そうそう、これ「鬱ゲー」って言われてますけど、ある意味で鬱ゲーだとは思います。

それは残酷で嫌悪感を抱く描写があるとか悲惨な状況や重苦しい雰囲気だからとかそーゆーことではなく、登場人物である彼らの心境や行動やその結果がなんというか、「現代社会における閉塞感に似ている」からです。

 

閉塞感というよくわからないけど日々感じるもの、それをもうちょっとだけ目に見えてと言うか、疑似体験を通して感じることができるような気がするので、そういう意味では鬱ゲーなのかも。

なので、若い時にやっておくとちょっと人生観とか変わるかもしれませんね。

 

 

■追伸


 

同じシナリオライターの人が書いている『キラ☆キラ』も良かったです。

個人的にはこっちの方が好きですね。

 

→ 世の中ってむつかしいね【キラ☆キラの感想とネタバレ】

 

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