「虫」と「人間」を分けるもの-世代間格差より重大な問題-

まとめサイトやツイッターで話題になっているもので、個人的に面白いネタがありました。

世代間闘争やジェネレーションギャップやワーキングプアなどの話題かと思いきや、もっと大事なことが「ある一言」に含まれていたなと思ったので、今回はそれを扱いたいと思います。

その話題になったタイトルは「なんで共働きなのに生活苦しいの?」です。

 

 

■このツイートから感じたある問題


 

全文に関しては上記のリンクから見てもらったらいいと思いますが、ポイントになるものをいくつか抜粋。

 

本筋では「年配層と若年層の価値観の違い」「年金逃げ切り世代」「若者が選挙に行かないからこんなことになる」という論争に発展していましたが、僕はそれが根本的な原因ではないと考えています。

まぁ、ぶっちゃけて言いますとこれは年代や年齢によって引き起こる問題ではありません。ある程度の傾向はあるにしても、若い子でも「ダメだこいつ・・」ってのはいますから。

その理由についてこれから話していきますが、冒頭で触れた「ある一言」が何かを探してみてから先を読み進めてもらうとより良いと思います。

 

 

■『まおゆう』の簡単なあらすじ


 

さてその理由を話す前に少しだけ予備知識を入れておきましょう。

現在こっそりと読書会をやっておりまして、『まおゆう』というライトノベルを読んでいます。

 

まおゆう魔王勇者 1「この我のものとなれ、勇者よ」「断る!」

 

その第一巻で下記のような台詞があるのですが、その前に簡単に補足説明を。

『まおゆう』は中世および近代ヨーロッパを舞台背景にし、神ではなく精霊を信じる教会が影響を持つドラクエみたいな世界設定です。

「勇者と魔王が戦い、その結果つかの間の平和が訪れ、そしてまた勇者と魔王が戦う」というシステムが稼動している。FF10のシンと召喚士システムに似ている感じですね。←どっちもわからない人続出!(笑)

そのシステムを変えるがため、魔王は勇者と手を組み、世界の変革へと挑む。

 

一方、世界は貧困国家は魔族との戦争によって経済を維持し、中央国家は貧困国家に武器や食料を売ったり代理戦争を行うことで利益と権威を得ていた。

ところが貧困国家が突如現れた学士(=魔王)による農地改革や産業革命により、貧困国家の経済事情は大きく改善。

それにより中央国家はこれまでの関係性および利益構造が崩れることを嫌い、その学士を異教徒認定し、貧困国家の躍進の芽を摘もうとした。 それを踏まえて以下の台詞へと繋がる。

 

ちなみにこの作品、魔王と勇者が主人公ですが、活躍するのはそれ以外の人ばかり。

つまり、圧倒的な能力を持った者や貴族や王家といった高貴な血脈が世界を変えるのではなく、「時代を変えるのは勇気ある凡人である」というメッセージがあるのかもしれません。

そうならないのが人間の弱さですけど(笑)

 

 

■人間とは何なのか?


 

異端認定された学士の演説が第2巻以降のターニングポイントとなるのですが、結構長い台詞なのでポイントの部分を引用。

私は、人間だからです。

私は、自信がありません。

「このからだの中には、卑しい農奴の血が流れているじゃないか」
「お前は所詮、虫けら同然の人間もどきじゃないか」と。

だからこそ、だとしても、私は、人間だと言い切らねばなりません。

なぜなら、自らをそう呼ぶことが、人間であることの最初の条件だと、私は思うからです。

望むこと、願う事、考える事、働き続ける事をやめてはいけません。

精霊さまはその奇跡を以って、人間に生命を与えてくださり、その大地の恵みを以って、財産を与えてくださり、そのたましいの欠片を以って、わたしたちに自由を与えてくださいました。

精霊さまは完全なるよきものとして人間を作らずに、毎日少しずつ頑張るという自由を与えてくださいました。

それが、「歓び」だから。 だから、楽するために、手放したりしないで下さい。

精霊さまの下さった贈り物は、たとえ王でも、たとえ教会であっても、侵すことのできない神聖な宝物なのです。

投げようと思うなら投げなさい!

この狭く、冷たい世界の中で、家族を守り、自分を守るために、石を投げることが必要なこともあるでしょう。

私は、それを責めたりしない!

その判断の自由も、また、人間のもの。その人の心が流す血と同じだけの血を、私は、この身を以って流しましょう。

しかし。 「他人に言われたから」「命令されたから」という理由で、石を投げるというのなら。 その人は「虫」です!

自分の意思を持たない、精霊さまに与えられた大切な贈り物を他人に譲り渡して、考えることをやめた「虫」です!

それが、どんなに安らげる道であっても、宝物を譲り渡した人間は「虫」になるのです!

私は「虫」を軽蔑します。
私は「虫」にはならない!

私は、私は、人間だから!

 

この辺は「自由、所有、安全、圧制への抵抗」の権利などなど、自然権(生命・財産・自由)や人権宣言そのものだというのはわかると思います。

しかし、僕が気になったのは「虫」という言葉の使い方です。

 

この「虫」という言葉はこの演説以前に出てきたメイド長の台詞が起点となっています。

自分の運命をつかめない存在は虫です。私は虫が嫌いです。大嫌いです。虫で居続けることに甘んじる人を人間だとは思いません

 

ここから少しまた補足説明をする必要があるのですが、前述の演説を行った学士は魔王ではなく、元は農奴だったメイド姉が魔王の代わりに学士の姿に変身している状態です(※諸事情により魔王が不在のため) 。

ですので、学士(=魔王)の言葉ではなく、学士(=メイド姉)の言葉となります、あの演説は。

メイド姉は妹とともに農奴として暮らしていた農園を逃げ出し、魔王やメイド長がいる屋敷へ逃げ込みます。

 

そこでメイド長に先ほどの台詞を通して現実を突きつけられるのですが、メイド姉はここでこう返します。

わたしたちを、ニンゲンにしてください。わたしは、あなたがうんめい、だと――おもいます

 

この台詞がひらがなだけなのは農奴として教育を受けていないことを表現しており、後に教育を受けることで漢字なども入ってくるのですが、大事なのはメイド姉が「人間とは何か?」を直感的に理解したこと。

そして、それが最初の演説に繋がったということです。

 

 

■人間になるために必要なもの


 

そんな「虫」と「人間」という表現ですが、この2つを分けるものとは何なのでしょうか?

僕はそれを「教育」と「思考」だと考えます。

「虫」というのは躾や調教(=教育)ができないみたいです。 簡単に調べただけのなのできちんとやればもしかしたらできるのかもしれませんが、僕が調べた限りでは可能性のある話は見当たりませんでした。

きちんと躾や調教をする前に虫の寿命が尽きるというのも原因みたいですし、あと虫の体の構造的に一定の痛みを超えると神経を切断することもできるみたいで、人間や動物みたいに痛覚を通しての躾や調教も難しいみたいです。

まぁ、痛覚を通しての躾や調教が「教育」とは言いませんけど、「虫に対してのアプローチとしてそれもできないっぽいですよ」って話なので。

 

 

■冒頭の問題とその答え


 

さて、ここまでが予備知識で、ここからが冒頭の「ある一言」と「問題の本質」の話になります。

わかりましたか?

冒頭のツイートの中にあった重要なキーワードが何かってことに?

 

まぁ、もう言いますけどキーワードが含んでいるツイートはこれです。

そしてキーワードは、「そんなのテレビじゃわかんなかった…」です。

 

問題となるのは、

・情報源の大半がテレビ
・テレビの情報が正しいと思っている
・しかも、他と比較することを知らない
・そもそも情報収集の仕方を知らない
・なおかつ、自分の頭で価値判断することができない
・判断の基準を他人に委ねている

ということ。

 

そして、これが現時点では人口で一番多い層ということで問題になっていますが、この要素を含むのは別に団塊の世代やそれ以前の人ばかりではなく、僕らの年代はもちろんのこと若年層もこれに当てはまるようになってきているということです。

ちなみにこれ、若年層の場合だと「テレビ」を「ネット」に変えるだけで応用できます。

 

若年層はもうパソコンを持たず、全てスマホで事足りると豪語する人も多いようです。

まぁ、僕が若年層という言葉を使うのも正直どうかなって気もしなくはないですが・・(苦笑)

 

それはいいとして、確かにスマホは「情報を受け取る」ためのデバイスとしては優秀ですが、「情報を調べて、比較する」ためのデバイスとしてはパソコンに劣ります。

ですので、スマホをメインに使っている時点で「情報収集能力は劣る」ということです。これはタブレットも同じ。

もちろんパソコンを使っていたとしても、「検索能力」「比較能力」がなければあまり意味はありませんが・・。

 

 

■結論


 

では、再び『まおゆう』に戻りながら、結論へ向かっていこうと思います。

メイド姉やメイド長が言っていた「虫」「人間」ということはどういうことなのか?

誤読している人は「農奴みたいな人間を虫けら扱いする駄作だ」「まおゆう信者こそ正しい独裁者を求める奴隷だ」という風に読んだみたいですが、そういう人はそもそもの前提知識あるのかなって思いますね、近代の人権思想や啓蒙思想などに関する歴史的な背景とか。

 

そもそも論として近代における「人権」なんてものは、選ばれた一部の貴族や富裕層にのみ与えられたものであって、それ以外の人間は彼らの「所有物」だったわけです。

それがいくつもの革命や闘争などを経て、僕らのような凡人にも一応は与えられるものとなった。そういった経緯がある。

 

あー、あかん。これは話が長くなるだけでなく、横道に逸れまくる。

えーっと、「虫」には教育ができないとなると、虫というのは「本能」と「生存欲求」によってのみ生きる存在だということになる。

 

しかし「人間」は教育によって、「本能を超えた理性的な行動」ができる。

つまり「虫」というのは、「自己選択の自由」「自己選択の責任」を持たない存在であると言えます、この記事内においては。

 

だから、メイド姉は演説の中でこう言うのです。

「他人に言われたから」「命令されたから」という理由で石を投げるというのなら、その人は「虫」です!

 

まぁ、今回話したことはバカみたいな理想論であり、劇薬みたいな思想であることは理解していますよ。

人によったら嫌悪感が出る内容かもしれません。

 

だって、社会というのはある意味で「昆虫的な社会集合体」ですから。

何万、何十万という昆虫それぞれに役割が与えられており、そうすることで世界が回っている。

そういう意味で僕らが住む社会も、個々の役割分担によって成り立っているという意味で同じです。

それでも「考えることを辞めたらそこで人間終了ですよ」っていうのは確かです。

 

それはメイド長のこの言葉が近いかな。

やってることはメイドと変わりありませんよ。主人の意を受けて、主人の言葉ならなんでも従う。主人の夢を叶えるため、そのために命を捧げる。奴隷と大した違いはありはしません。

 

「虫発言」をしたメイド長は、ある場面で「奴隷とメイドの違い」についてこう語っています。

 

では、メイドとしての誇りを持って仕事をするメイド長が自身の仕事に対して「奴隷と大差はない」と言う意味とは何なのか?

 

それは「自らの意志を持ってそれをしているか?」ということ。

そしてそれが「虫」と「人間」とを分けるものなのかもしれません。

 

 

■余談


 

ちょっと余談というか、横道に逸れますね。

例えば「若者が選挙に行かない」という話もそうですし、「18歳の選挙が可能」になったり「ネット選挙が解禁」したとしても、この「教育」と「思考」が改善しない限りは根本的な解決にならないでしょう。

また正規雇用と非正規雇用の対立や年金問題を主とした世代間闘争、そしてその周辺での様々な法改正について議論されていますが、そもそも論として「バブル崩壊後に自分達の雇用を守るために当時の20~30代を切り捨てた」のが根本的な原因です。

 

それが「年金の額を減らすというのは老人は死ねというのか?」と、あの頃と同じことを繰り返しているだけの話。

もちろん、僕も含めてどの世代も「自分のため」「今生きるため」に必死で、上の世代とか下の世代とかを考えないのが普通だと思います。

今の若い世代が団塊世代を敵として見ていたとしても、団塊の世代は彼らは彼らで自分達を被害者だと思っていますし、僕らが高齢になったら下の世代から戦犯扱いされることでしょう。

 

しかしながら、昔と今では何が違うのかと言うと「経済環境」と「幸福度」です。

今の若者の方が学力だけでなく能力やスキルも高い。
でも、おそらく多くの人は報われない。

それは「テレビじゃわかんなかった」と言うような親や先生の言うことを鵜呑みにしているから。

だから、教育っていうのは単純に「識字率がどーのこーの」みたいに日本語が使えるようになることじゃないんですよ。

 

まぁ、基本的な語彙能力や四則計算もできない人も増えていますけどね。

これ、何を言っているかわかんなかったらちょっとアレかもしれません。←「アレ」とか言っている時点で語彙能力なし(笑)

 

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2件のコメント

  • 匿名

    自己選択とか自己責任とか自助努力などは大事でしょうが、それが欠けている人間を虫よばわりするのは好きではないです。
    人権があるのが当たり前ではない世の中から今の比較的平和な状態になったのだから、わざわざ他人を虫と人間に分けなくてもいいのでは?と思います。

    • のでじん

      コメントありがとうございます。

      『まおゆう』をテーマにしており、
      その作品内で使われている言葉を用いており、
      『虫』という言葉に何かしらの嫌悪感を
      抱かせてしまった可能性はありますが、
      僕自身は自己選択や自己責任が欠けている人を
      虫呼ばわりしているつもりはありません。

      これがもし別のテーマで語るとすれば、

      「本能や感情が優位・・というよりは、
       脊髄反射的に行動する人は、
       動物と大差ないのではないか?」

      という表現になったでしょう。

      例えば、家にいるネコはいつも僕には
      手厳しいのですが、鰹節や煮干を持っていると、
      「ネコを被った」という表現がピッタリなくらい
      ニャーニャーと擦り寄ってきます。

      さっきまでネコパンチをしていたのに、
      オヤツでコロッと変わってしまう。

      これはネコだからこそかわいいのですが、
      同時に少し滑稽にも映ります。

      そして、もし人間が同じようなことを
      やったとしたら、どう感じるか?

      その滑稽さを表現したり、
      問題提起のために、
      最初のツイッターの引用があり、
      その解答として、『まおゆう』を引用し、
      自論を展開しました。

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